Facebook Instagram
Facebook Instagram
04
300周年インタビュー・メッセージ
INTERVIEWS &
MESSAGES

撮影:平野タカシ 取材・文:相澤洋美
 ヘアメイク:MAKOTO スタイリスト(吉川さん):黒田 領

Special Edition

〈対談〉
心に刻まれた「修道魂」

吉川晃司さん
(ミュージシャン・俳優)
田原俊典
(修道中学校・修道高等学校 校長)
前編

人生の基盤をつくった
水泳班の思い出

修道中学校・修道高等学校で水泳班に所属。強豪チームの主力メンバーとして活躍し、高校1年生で水球U-20(水球の20歳以下のW杯)の日本代表選抜にも選ばれた“修道のレジェンド”吉川晃司さん。
母校の創始300年を祝し、田原俊典校長とのスペシャル対談が実現しました。
前半では、厳しくも心に残っているという水泳班時代について語り合いました。
※修道中学校・修道高等学校ではクラブのことを「班」と呼びます。また水泳班では、競泳ではなく水球を競技種目として活動しています。


田原俊典校長(以下:田原)

いま、修道中学校・修道高等学校の校長として、全国各地で講演などもさせていただいておりますが、「修道の教員です」と言うと、どこへ行っても「吉川晃司さんの母校ですか?」と聞かれます。吉川さんはまさに、修道のレジェンド。本日は、そんな吉川さんと対談させていただけることを、大変嬉しく思います。
ぜひ、修道の思い出などもお伺いさせてください。どうぞよろしくお願いいたします。

吉川晃司さん(以下:吉川)

畏れ多いことです。お役に立てれば光栄です。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。

田原

吉川さんが修道を目指したのは制服に憧れたからだと聞きまして、本日は当時の制服を持ってまいりました。

吉川

これは中学の制服ですね。私が修道中学校に入りたいと思ったのは、この上着の袖部分にある白線がカッコよかったからなんです。
勉強が得意だったわけではないので、小学校5年生になって、「修道を受ける」と担任に言ったら、「絶対に101パーセント無理」と言われまして……。悔しいのでそこから猛烈に勉強して合格しました。ただ、入学してしばらくすると、この白線で、どこへ行っても修道の生徒だとバレてしまう。悪さができないので、白線が邪魔だな、と思うようになったことを思い出しました(笑)。
この白線は、もともと戦時中の軍服の名残か何かなのでしょうか。

吉川さん在校時の中学校制服

吉川さん在校時の中学校制服

田原

軍服というよりは、ひと目で修道生と見分けがつくようにという配慮からだと聞いています。
戦時中、修道中学の制服は「国防色」と呼ばれていたカーキ色でした。戦闘帽をかぶり、脛に軍隊が使用していたのと同じゲートルを巻き付けると、どこの生徒なのかまったく見分けがつかなかったそうです。
戦況が悪化し、いつ空襲を受けて犠牲になるかもしれないなか、制服上着の袖口10センチくらいのところに1センチ幅の白布をつけることで、修道中学生の自覚をもつとともに、白線を目印にお互い助け合って安全を目指そうとした、と聞いています。

吉川さん在校時の中学校制服

吉川さん在校時の中学校制服

吉川

白線にはそのような歴史があったのですね……。存じ上げませんでした。

田原

本当に、平和な時代に生まれたことに感謝ですよね。
ところで吉川さんは修道時代、水泳班に所属し、水中の格闘技ともいわれる水球をされていました。いまも記念品室に当時のお写真や記録が残っていますが、大会で数々の好成績を収めた強いチームだったそうですね。

吉川

はい、顧問の種田豪先生の情熱的なご指導のおかげです。修道の水泳班は1969年と1970年の2年連続、日本高等学校選手権水泳競技大会で全国優勝していますが、私が所属していた時代も結構強い選手がそろっていました。「また優勝のチャンスが巡ってきた」と思われていたのかもしれません。今の時代では考えられないほど熱心にご指導いただきました。

田原

吉川さんは、高校1年生の時に、水球U-20(水球の20歳以下のW杯)の日本代表選抜にも選ばれています。高校生は吉川さんのほかに何人くらい選ばれたのですか。

吉川

6〜7人だったと思います。修道からは私と、1つ上の先輩が選ばれていました。ほかにも、選抜合宿に参加すればU-20に選ばれたであろう同級生がいたのですが、彼は「東大に入りたいから合宿は遠慮しておく」と断りまして……。志望通り東大に入っていましたよ。

田原

文武両道の修道らしいエピソードですね。1日の練習時間はどれくらいだったのですか。

吉川

学校が長期休みの間は朝から晩までです。泊まり込みでご指導いただいた時は、1日14時間くらい練習させられました。あの頃は正直、「勘弁してくれ……」と思っていました。

田原

すごい情熱ですね。

吉川

種田先生は毎日プールにいらっしゃいました。私たちはずっと水中にいるのに、種田先生はプールサイドで優雅に飲み物を飲んだりされていて……。「自分は(水の中に)入らんくせに、ずいぶん調子のええもんじゃのう」「なんでここまで……」などブツブツ文句を言いながらも、ひたすら練習する日々でした。

田原

冬はどうされていたのですか。

吉川

学校外の温水プールをお借りしていました。でも、クラブの練習外の時間なので、早朝5時とか夜になってからという時間帯です。電源は当然切られているので、水がだいぶ冷たくなっている。「なんや、このクソ寒さは」と言いながら練習したことを憶えています。当時は本当に嫌でしたけれど、あの時代があったから今があると思うと、種田先生には心から感謝しています。

田原

吉川さんは水球のほかにバンド活動もされていたのですよね。バンドの練習をされるお時間はあったのですか。

吉川

夏はありませんでした(笑)。でも冬は日没前に水球の練習が終わるので、夜7時から9時くらいまでは、バンドの練習をしていました。
バンドは、水泳班の同級生に誘われ、ボーカルで参加。ドラムとキーボードが修道生で、あとは他校の生徒でした。なかなか演奏の上手なバンドで、アマチュアながら約800人収容のホールを満員にしたこともありました。

田原

800人のホールを満員に! それはすごい。女子学生からもさぞ人気があったのでしょうね。

吉川

まあ、当時バンドマンは人気がありましたね。でも私の場合は、バンドと水球を並行してやっていたので、学生にしては忙しすぎて……。残念ながら女の子と遊ぶ時間はありませんでした。アルバイトもしていましたし……。って、これは話しちゃいけんかったですかね。もう時効ということで(笑)。
バンドの練習をするリハーサルスタジオのレンタル費用が、小遣いではとても捻出できないほど高かったので、メンバーみんなで新聞配達をしたり、牡蠣を冷凍するアルバイトに行ったりして、スタジオ費を捻出していました。

田原

慶應義塾大学の推薦資格も得ていた水球ではなく、音楽の道を選ばれた理由をお聞きしてもいいですか。

吉川

水球でU-20の日本代表選抜に選んでいただき、エジプトとイタリアへ遠征に行った時に、圧倒的に世界との格差を痛感したんです。それまでは、高校1年生でU-20に選ばれたりして、どこか天狗になっていたところがあったと思います。でも、世界はあまりにもレベルが違い、鼻っ柱を思いきり折られました。それで先のビジョンが見えなくなってしまったのです。
帰国後しばらくは水球を続けていたのですが、どうしてもモチベーションが続かなくて……。中学生の時に所属していた美術班に戻ろうとしたのですが叶わず、勉強でもまわりに敵わないので、これはもう学校をやめて、音楽をやりに東京へ行くしかないと思うようになりました。
自分が得意な美術とスポーツの両方が武器になりそうなものを考えた時に、なんとなく「歌手」かな、と思ったのですが、まわりからは「どこがつながっているのかわからない」とポカンとされました(笑)。

田原

私はつながりました。シンバルキックですね!

吉川

あはは、面白いですね(笑)。私は、音楽は旋律のデッサンだと思ったんです。バンド経験もありますし、運動神経とリズム感も活かせる。もう自分の生きる道はここしかないと思いまして、渡辺プロダクションに手紙を書きました。当時渡辺プロには、沢田研二、アン・ルイス、山下久美子という一流のミュージシャンが所属していて、この会社なら消耗品ではなくちゃんとメジャーで活躍できる環境をつくってくれるだろうと考えてのことでした。

田原

「広島にすごいやつがおる」という手紙ですね。

吉川

はい、もう嘘八百です。自分の人生がかかっていますから、藁にもすがる思いで、他人のフリをして手紙を出したところ、そのすぐ後にたまたま渡辺プロの方が近くまでいらっしゃるというので、見に来ていただきました。自分で書いた手紙だというのはバレていましたけれど(笑)。

田原

その後デビューを果たし、トントン拍子でブレイクされました。デビュー間もない頃には、修道に“里帰り”して、プールサイドで歌番組の中継をされたこともありましたが、あれはテレビ局の方がお決めになったのですか。

吉川

10代の頃の話ですので、詳細は忘れてしまいましたが、おそらく私としても修道でやらせていただけるのであればありがたい、という思いはあったと思います。

田原

吉川さんは2017年4月、本校のプールが新しく生まれ変わった際もプライベートでお越しくださいました。学校からは謝礼どころか交通費もお出ししていないのに、大変感激いたしました。
急遽メディア取材が入ることになった時は慌てましたが、おかげさまで学校のよい宣伝にもなりました。
ただ、竣工式の時に吉川さんがテレビカメラの前で「昔は学校のプールに裏から入れた」とおっしゃっていましたが、今はセキュリティが非常に厳しくなり、もうプールへ勝手に入ることはできなくなってしまいました。

新プール竣工祭(2017年4月)

新プール竣工祭(2017年4月)

吉川

残念にも思いますが、学校としては当然です。
中学3年生から水球をはじめ、いちばん血気盛んな中学・高校時代、陸の上にいるより長い時間水の中で過ごしてきたせいか、陸よりも水中にいるほうが落ち着くんです。上京して歌手になってからも、壁にぶち当たったときや悩みがあるときは広島に帰り、生徒たちが帰るのを見計らってこっそり修道のプールにぷかぷか浮かんで考え事をさせてもらいました。あの時間を、今でもありがたく思っております。
両親の影響を受けて育ちはしましたが、もっとも私の人格形成に影響を与えたのは、修道のプールだと思っておりますし、「Ooochie Koochie(オーチーコーチー)」新曲のMVにも、修道のプールは登場しています。

田原

吉川さんが水泳班の生徒を集めて「つらいことがあったときに、修道のプールを思い出して乗り越えてきた。修道のプールは僕にとって母の体のようなものだ」とおっしゃってくださったことは、生徒たちの心にも深く響いていました。
いまも泳いでいらっしゃるのですか。

吉川

はい。今日も泳いでからこちらにまいりました。いまでも年間250〜300日は泳いでいます。

田原

それはすごい……!修道のプールには、やはり「吉川さん用特別入場口」をご用意しておかないといけませんね。相談してみます(笑)。